学会活動

ランニング・カフェ

第8話 スポーツ科学の可能性と限界

山地啓司(初代ランニング学会会長)

現在は科学(サイエンス)や科学技術(テクノロジー)が加速的に進歩を遂げ、科学万能時代到来の観さえある。今日の医科学的成果の応用にはいくつかのターニングポイントがあるが、最近では1991年カナダの医師ギヤットがこれからの医療の指針である“科学的根拠に基づく医療”(evidence based medicine)を提唱したことがその1つである。その社会的背景には1970年代に入って北米各地で度重なる医療ミスや医療過誤の訴訟・裁判に対する司法の厳しい判決があり、それに対応するためには、それまでの経験や勘に頼る医療ではなく、科学的根拠に基づいた医療でなければならないと警告したのである。それ以降、日本でも医療現場だけでなく、司法や教育さらには日常生活の中にまで、その精神が求められて来ている。例えば日常的な身近な例を挙げると、医療分野では病院へ行けば検査漬けを経験し、司法では自白よりも客観的証拠が優先されるようになり、再審の道が大きく開かれた。最近では科学的根拠に基づく医療の精神を補完するため患者の立場に立った医療、例えばこれまでの生い立ちや生活・社会環境等の背景を把握してそれに基づく処方(narrative based medicine)が求められ、さらにスポーツの分野では科学的データの応用の精神である科学的根拠に基づく適用(evidence based application)が求められてきている。

これらの精神はスポーツ指導の在り方にまで波及している。裁判の国アメリカでは、将来性のある優秀な子どもがクラブの指導者の誤った指導により再起不能のけがを負わされたとして、将来プロ選手として所得すると推測される生涯収入の補償を求めた訴訟・裁判が起きている。このような事態が多くなってくると将来スポーツ界でも“科学的根拠に基づくトレーニング”がより強く叫ばれる日が来るかもしれない。果たしてスポーツ科学にはそれに応えられるだけの実践的で、個々人の特性に応じたトレーニング理論が確立されているであろうか。

文科省の科学研究費を申請する際、スポーツ科学分野は複合領域に属する。換言すれば、スポーツ科学は人文・社会学系と理系の両者の科学分野を包括し、しかも芸術系(アート)にも属する総合科学である。(スポーツは身体のサイエンスと文化的活動としてのこころの表出の1つの手段であるアートを内包している。)筆者が専門とする運動生理学的分野を科学の系統樹でたどると、その根幹は生命科学に帰す。生命科学の分野で“科学する”時には、①客観化(数量化や画像化)すること、②再現性が高いこと、の2つの条件が最低満たされなければならない。例えば、①の客観化するとは定量化することであり、定量化するためには実験で得られたデータを統計的に処理しなければならない。そのため被験者の個々人の特性(個人差)は平均値の中に埋没する。さらに②の、再現性を高めるために実験は、温度・湿度や風速がコントロールされた狭い実験室で、運動条件(様式や強度)が選定できるトレッドミルや自転車エルゴメーターを用いる。被験者の顔には蛇管でつながったフェイスマスクを付け、さらにからだには多くの電極を付け、完全に自由を奪われた状況の中、すなわち閉鎖的環境の中で行われる。

一方、陸上競技に限定するとレースやトレーニングは屋外の刻々変化する気象条件下で、仲間やライバルの息づかいや足音を励みにしながら自分の意志で走る。このような開放的環境の中でのレースでは、閉鎖的環境下で得られたデータがそのまま応用できるとは限らない。現場の指導者は、選手個々人の体力や精神的特性、あるいはこれまでのトレーニングの背景を考慮しながら、また、色々想定される条件を考慮しながらトレーニングを行うからである。すなわち、研究で得られた平均値的データとスポーツの現場の個人特性に基づく指導との間に齟齬が生じる。そのため、極端な話では、指導者の中には「スポーツ科学は現場に役に立たない」と言い切る者までいる。その言葉にもうなずける面がある。

このように、トレーニング科学に限定すると科学的手法で得られた成果が直接指導の場で使えるとは限らない。特に一般選手を対象にして得られた科学的物差しをトップ選手のトレーニングに当てはめることは難しい。そこで、実践的研究を目指す時には指導現場からテーマを抽出し、一人一人の体力なり技術を測定・評価し、付加価値を付けて指導現場にフィードバックしなければならない。すなわち、実践的研究あるいはケーススタディー(事例的研究)の積極的な応用が必要となる。

しかし残念ながら、既存のスポーツ関連学会では、この種の実践的研究や事例的研究の必要性や重要性を否定しないまでも、人事などの実際の論文評価になると原著論文よりも低く判断しがちである。スポーツ科学の特性に鑑み、研究者一人一人が実践的研究の必要性と重要性を認識し、科学的成果をフィードバックする形で積極的にスポーツや健康の分野へ介入していかなければならない、と考える。そこで、2020年の東京五輪を視座した1つの行動として、スポーツ実践学の研究成果を発表し、また、スポーツ科学とスポーツ現場がより有効に機能する情報交換の場を提供する学会(機構)、「スポーツパフォーマンス研究会」を発展的解消して「日本スポーツパフォーマンス学会」(会長:福永哲夫)を昨年新たに発足させた。興味を持たれる方は下記にお問い合わせ下さい。

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