学会活動

ランニング・カフェ

第12話 鉄は熱いうちに打て!

山地啓司(初代ランニング学会会長)

新聞に、ある家庭科の先生の授業であった話が掲載されていた。お菓子つくりの授業が終わりに近づき、「お茶でも飲みましょう」と生徒にお湯を沸かすよう指示すると、「湯沸かし器はどこにあるのですか?」「やかんに水を入れて沸かしなさい。」人数を全然考慮しないでやかん一杯に水を入れ、沸きはじめると、「温度計はどこにあるのですか?」と聞く。日本人の感性はどこへ行ったのでしょうか、と。「卵が割れない子ども」「雑巾がしぼれない子ども」「ほうきや熊手を持っても掃除ができない子ども」「和式トイレが使えない子ども」など、かつては家庭や子供たちの遊びの中で教え、覚える基本的動作の多くが、保育所や幼稚園、あるいは学校に任されている。そんな話は下火になったが、人間が生きるため、社会生活を円滑におくるための基本の動きや知識が生活環境の変化に伴い退行しているのは確かであろう。(勿論、情報機器などの普及に伴い、それを操作する動きは発達してきたであろうが・・・・。)

人間が本来持つ動きや学習されるべき動きはかつて「基本の動き」の授業に託されたが、小学体育の授業から姿を消して久しい。学校体育で小学校高学年から大学体育授業までオリンピックや国体種目等のスポーツ競技種目が行われている現在、若者の動きの狭隘化や画一化が進行しているような気がする。では、なぜ競技種目に視座した授業に問題があるのだろうか.例えば投てきを例に挙げると、競技では投げる目的、投げる物、投げ方等が決まってしまう。すると、からだが大きく、パワーがある者が絶対的に有利になる(体育嫌いをつくる1つの要因となる)。一方“投げる”動きつくりの授業では、投げる目的は遠く投げるだけでなく“正確に”が加わってくる。1つ目的が加わることで子供たちの目の輝きが変わる。投げる物は石でも、棒切れでも、タイヤでも工夫すればいくらでもある。投げる物や目的によって投げ方も異なってくる。

また、“走る”動きには200種類以上ある。競技では、限られた距離をいかに短時間で走るかが目的となるため、走り方が自ら決まってくる。しかし、“走る”授業になると目的はただ速いだけではない。美しく、軽快に、リズミカルに、力強く、疲れないなどの心情表現や合目的的な動きもある。サッカーでゴールを奪った選手の歓びの走りは試合中の走りとは異なった歓喜(雀躍)の走りである。走る方向は前だけでなく横や後方へなど360度どこでもいい。走り方もピッチ走、大股走、ジャンプ走、バウンディング走、ステップ走、1直線や2直線走法、左右交差走、もも上げ走、おくり足走、ナンバ走り、回転走・・・数多い。速く走る必要がなければ、仮装して走ることも、高下駄やスリッパをはいて走ることも、空身でなく手や背中に何かものを持って走ることもできる。その他動きには、跳ぶ、滑る、たたく、切る、漕ぐ、絞る、振る、回す、掃く、上がる、下る、蹴る、打つ、捕る、伸ばす、回す、曲げる・・・等々たくさんある。勿論、すべての動作を指導するわけにはいかないので、多くのスポーツの基礎的動きにつながる全身的運動を選択すればよい。種々多様な動きを小学低・中学年までに教える必要性を痛感する。

では、なぜこのような動きつくりが必要なのでろうか。スポーツ技術を高める際の定石はまず教師なり選手なりの動きを見てそれをまねること(イミテーション)である。観た動きをすぐに真似られることや、自分がイメージした動きをすぐに表現することができれば、将来種々のスポーツを楽しむことが可能である。スキャモンの発育型曲線にもあるように神経や神経網の発達が最も著しい幼少期から小学生の低・中学年までに、種々の動きを習得しておけばより長い人生の中で多くのスポーツを楽しむことが可能であろう。大学大綱化に伴って大学体育は必修から選択になり、スポーツに興味を持ち比較的スポーツに馴染んできた学生が受講しているが、彼らでも新しい動きを習得し、トランスファー(他のスポーツの動きを導入すること)して、すでに体得した動きに修整を加えることは著しく難しい。

体育実技を受講していない学生の動きがどんな状態かおおよそ見当がつく。歩いたり走ったりすることは他のスポーツに比べ特別高度な技術を改めて習得する必要がない。人々が体力つくりの必要に迫られて何か運動を始めようとする時、例え運動経験がなくても手っ取り早く安易にできるウォーキングやランニングを指向するのは当然の成り行きである。人生を通して多様なスポーツを楽しむために小学校の低・中学年までに動きつくりの学習をすることが大切である。