学会活動

ランニング・カフェ

第14話 身体(用)語

山地啓司(初代ランニング学会会長)

私の学期最初の「体育講義」は骨の話をすることにしている。骨が豊かと書いて、體(からだ)と書くように、骨は人体の正に屋台骨として各組織を支え護り、しかも、栄養や酸素を運ぶ血液をつくる工場として重要な働きをしているためである。時に学生に骨に関する“身体(用)語”を知っているだけ挙げるよう求めるのだが、最近2〜3の言葉しか返ってこなくなった。明治大学政経学部教授のマーク・ピーターセンも新聞の夕刊にで、『大学で学生が使う日本語を聞いていると、「ひと肌脱ぐ」「骨惜しみをしない」「本腰を入れる」などの、身体のある部分が比喩となる日本語表現が姿を消してしまった』と私と同じ感想を述べていた。

雑誌『広告批評』にショッキングな記事が載っている。101名の若者を対象に言葉の意味を尋ねる記事では、例えばその正解率は、“尻が長い”が29.6%、“尻をまくる”が8.5%、“舌を巻く”が42.3%、“足が出る”が52.1%、“目から鼻に抜ける”が16.9%と、驚くべき結果が報告され、“からだ言葉”が若者から消えて行っている実態を明らかにしている。国立西洋美術館長をしていた樺山紘一氏は「からだは文化である」といい、言葉からからだが抜けていくと、からだは文化を失い、得体のしれないものになっていく、と懸念している。

身体語(からだことば)とは身体部位だけでなく、見たり聞いたりするような感覚・知覚の用語、疲れ、痛みなどの生理的表現、からだや気などの全体的表現を包括するものとされている。身体語の本が多く出されたのは20年前頃だろうか。身体語に何か共通のルールなり意味があるのか興味を持ち数冊の本を購入して調べたことがある。長い歴史の中で、新しく加えられたり、使われなくなって消滅してしまったりして、適当に取捨選択されたのであろうか、そこに一定の法則らしきものは見いだされなかった。

それから雑誌や新聞を読んでいて気づいた身体語を手帳の片隅に書いているが、それらの身体語を挙げると、「目と鼻の先」、「目にものを見せる」、「足手まとい」、「目は口ほどにものを言う」、「舌の根が渇く間もなく」、「のれんに腕押し」、「腹蔵のない意見」、「肩で息をする」、「厚顔」、「地獄耳」、「頬かぶり」、「唇をかむ」、「告げ口」、「歯に衣を着せぬ」、「背筋が寒くなる」、「肩身が狭くなる」、「爪の垢を煎じて飲む」、「胸襟を開く」、「腹を割って話す」、「及び腰」、「尻拭い」、等々があった。

4文字の言葉もある。京都の龍安寺のつくばいに、水を溜めておくために中央に四角い穴が切られているが、それが“口”の字の形をなし、四方の4文字がその“口”を部首として共有した「吾唯知足」(吾ただ足るを知る)の禅語がある。人間の身体と土地は切り離せない密接な関係があり、地元の旬の食材や伝統食が健康に良い、などの意味に使われる「身土不二」、力の限りつくす意味の「粉骨砕身」、困難な状況におかれた時につくため息の「青息吐息」等々。モンゴルでは伝統的に交通手段として馬に乗り、今でも遊牧民は馬に乗る機会が多い。彼らの生活は正に「人馬一体」である。伝統的にこの習慣が身についているのか、オートバイや自動車に乗っても、「人車一体」の感があり、隣の車と数センチ差で操る。実に巧みと感心しながら同乗するが、同時に恐怖も感じる。

大勢の人ごみの中で友達と会話できるのは、感覚神経細胞のつなぎ目のシナプスのところで、自分が求めない不要な情報が徐々に消去され、求める情報のみがより鮮明になって大脳まで伝わってくるためである。自分が求めようとしない場合には、馬耳東風となる。すなわち、「こころここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」になる。東日本大震災の東京電力の事故を調査・検証していた政府事故調の畑村委員長は報告書の所感に「見たくないものは見えない。見たいものが見える。」と書いた。その意図は、「こうあってほしい」と願う方向でものを見がちなのが人間の本性で、こころしなければリスクを見のがすと、東京電力自身が行った事故調査を暗に批判したのである。

このことは、次々に明るみに出る企業の不正や学校で発生するいじめの問題にも共通する指摘であろう。思い出すのはバンクーバー五輪のスノーボードハーフパイプ代表の国母和宏の服装や茶髪にピアスの問題が話題になった際、記者に質問されたコーチは「心の窓まで開いていないので判らない。」と名言を吐いた。これに対して、脳科学者の茂木氏は「顔は心の窓であり、見た目は対人コミュニケーションの鍵なのだ」と、暗にコーチ失格と言わんばかりに応酬していた。

夏目漱石ほど身体語を多用した作家は見当たらない。彼の著書の中でも『それから』は突出している。例えば、「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に脚を載せさせようとするのです」。夏目漱石の『それから』の中の身体用語の使用回数を調べた者によると、“頭”157回、“顔”169回、“脳”23回。さらに、『門』の中では“頭”と“脳”を合わせると合計139回になる、という。どうも、頭と顔が使い勝手がよいようである。

明治大学の斉藤孝教授が『語彙力こそが教養である』を書いているが、私の年齢(70代半ば)になるといかに語彙を減らさないようにするか、毎日必死になって戦っている。運動生理学を志す私は少なくとも身体語を忘れないようにしているのだが、残念ながら段々心もとなくなってきている。