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第26話 「駅伝誕生100年」②

有吉正博(ランニング学会元会長)

前話では、駅伝の原点となった丁度100年前の「東海道駅伝徒歩競走」の誕生とその概略について紹介したが、ここではそのレース経過とそのレースを走った人、またレースに関わった人たちについていくつか紹介したい。

第1区(京都~草津)

京都三条大橋から草津まで25キロを走ったのは東軍、飯塚博(22歳、一高)選手と西軍、多久儀四郎(26歳、愛知一中教員)選手である。多久選手のレース後の思い出話が1917年5月28日読売新聞に掲載されている。「・・・飯塚君と仲良く一緒に駆け、途中所々に土地の青年団がテーブルを据え茶菓や茹で玉子を備えて『食べて行け』と好意を傾けてくれた・・・大津の町はお祭りのような人出で駆け難かった。大津の停車場に出た時、列車の通過で1分間立ち止まり、急に走り出したため腹部に痙攣を起こして足が出なくなった。後衛の自動車が近寄って木下博士が包帯を巻いてくれたので、気を取り直し、スピードを出し始めた・・飯塚君より14,5分は遅れたものと懸念していたが、意外にも8分差であった・・・」といった内容で、沿道の賑わいや第1区からの波乱のレース振りが窺える。

飯塚選手は一高(旧制一高:現東京大学)長距離競走の覇者

東軍第1区を務めた飯塚博選手は、同年3月11日に実施された一高長距離競走の優勝者である。その様子は写真入りで紹介(12日読売新聞)され、大宮東京間16マイル恒例行事は、東京高師の金栗四三(駅伝23区)氏と佐々木等(同20区)氏がゲストランナーで先着した後、飯塚博選手が1時間44分55秒で優勝、2位河野利雄(同2区)、3位菅村道太郎(同18区)、吉積泰(同13区)等の名前が並んでいる。

このように東軍は、金栗選手の門下生、東京高師、一高を中心とした関東の学生選手が中心であったのに対して、西軍は愛知一中の旧制中学生たち(15~19歳)中心のチーム編成であった。

多久選手(愛知一中教員)は金栗門下生

ただ、西軍1区を走った多久選手は中学生チームの教員として走った異色の選手である。前話でも触れたが、多久儀四郎氏は金栗四三、日比野寛氏らと共に選手編成委員も務め、本駅伝遂行の中心的な役割も担っている。そして、多久氏は金栗選手の門下生でもある。玉名中学でも高師でも金栗選手の1年後輩で、金栗選手の全盛時代に鍛え上げられ、極東大会800,1500m2種目制覇した名ランナーである。多久氏が愛知一中の教員となった経緯について以下のようなエピソードが残っている。金栗選手が高師を卒業した1914年(大正3年)春に、文部省からその赴任先が愛知一中と発表された。全校生徒に走ることを奨励し自ら先頭になって走っている名物校長日比野氏が事前に文部省に働きかけていた。金栗はその日の中に東海道線に乗って、日比野校長に直接お会いし、2年後のベルリンオリンピック(第1次世界大戦のため中止となる)を目指して東京に今しばらく留まって取り組みたい旨お願いしたところ、快諾していただいた。そうした経緯で直属の後輩である多久氏がその後愛知一中に赴任することになる。

第13区吉積選手のトラブル、秋葉選手2区間走破

第13区見附~掛川(17キロ)で東軍吉積泰(一高24歳)選手が先行していたところ、4キロ付近で足のトラブル発生。その様子を4月29日読売新聞は以下のように伝えている。「・・・吉積選手は28日午後2時56分見附を発し驀進一路一里弱の西島まで至りたるに、突然左足の腱を切り地上に倒れて一歩も進み難きより、自動車後衛隊は急に掛川に至り、掛川藤枝間(14区)の秋葉選手を自動車にて西島に迎え、同選手をして西島藤枝間実に十二里の長途を走らしむる事となれり、不測の厄に遭える秋葉選手の責務と努力や思うべし、・・・」

ほぼ2区間(42キロ)を走った秋葉祐介(高師22歳)選手も金栗の愛弟子として著名なランナーとなり、極東大会10マイル、マラソン優勝1918年(大正7年)、また金栗選手と二人で下関―東京間1919年(大正8年)、樺太―東京間1922年(大正11年)いずれも20日間で走破の偉業を成し遂げている。

アンカー23区は東西の両雄が務める

西軍、日比野寛(愛知一中校長、代議士52歳)

先に述べたように、日比野選手は選手編成委員として尽力し、結果的に西軍は校長を筆頭に、教員2名を含む愛知一中の生徒たち中心のチーム編成となった。自らアンカーを務め、川崎の中継所手前700m付近で22区の小堀四郎選手(愛知一中、16歳)が疲労困憊で倒れるというトラブルにも拘らず、その地点からタスキを手にして上野まで26km余りを走り切った。レース後の新聞(7月5日)に「・・・心配は総選挙のために、2か月以上練習しなかったから終わりを完うし得るや否やであった。この懸念があるのに、藤澤からの選手を途中まで迎えに出て受持ち距離の増加したには、頭を掻かざるを得なかった。・・・」と述べている。52歳のマラソン校長は、この年から国会議員としても活躍、教育・文化・スポーツ分野での功績は顕著であり、「日比野賞中日マラソン」、「日比野式走法」など名前を残し、パロマスタジアム(名古屋市瑞穂陸上競技場)の脇に、日比野寛像(写真)が立っている。その銘鈑には、「病人は医者に行け、弱い者は歩け、健康な者は走れ、強壮なるものは競走せよ。」と現代の生涯スポーツ(ランニング)に語りかけるような銘文が刻まれている。

東軍、金栗四三(高師研究科、27歳)

東軍のアンカーは「マラソンの父」金栗四三選手である。この年の5年前(1912年)、嘉納治五郎団長に率いられ、三島弥彦選手(帝大、短距離)とともに日本人として初のオリンピック出場(マラソン:ストックホルム)を果たしたが、レース途中熱中症で無念の棄権、その後ベルリン(1916年)、アントワープ(1920年)、パリ(1924年)大会の日本代表になるなど活躍、日本の長距離・マラソンの普及強化に尽力した。この時は、前年のベルリンオリンピックが中止(前述)となり失意の時であったのかもしれないが、ランナーとしては全盛期であった。

そうした時期に、日本初の「東海道駅伝徒歩競走」に出会い、東軍チームを引っ張り教え子や同僚、関東の学生たちと共に走ったことは、その2年半後(1920年)に「箱根駅伝」を誕生させる大きなきっかけとなったに違いない。

金栗氏の偉業を語るには紙面が足りないが、再来年(2019年)のNHK大河ドラマに「韋駄天(いだてん)」ランナー、金栗四三が取り上げられることになっているので、多くの方にその一端が語られ2020年東京オリンピックがいっそう盛り上がることは楽しみである。

おわりに

100年前の駅伝誕生について2話に渡って紹介したが、この1大イベントに関わった役員名簿を見ると、いずれもビッグネームが並んでいる。日本における体育・スポーツの草創期、近代スポーツの発展に寄与された偉人たち、しかも当時の年齢を見ると、皆さん実にお若い。私どもが尊敬する偉人の方々がお若い時代に、このイベントがあったことに改めて感動を覚える。2-3、そのお名前と年齢など列挙しておわりとしたい。


大会顧問(ビッグスリー)

  • 嘉納治五郎(57歳)日本体育協会会長、高等師範学校校長、講道館柔道創始者、IOC委員日本人第1号
  • 武田千代三郎(50歳)日本体育協会副会長、神宮皇学館長、「駅伝」の名称提案者
  • 岸清一(50歳)日本体育協会副会長、IOC委員(嘉納に次ぐ2人目)、1940年東京オリンピック(中止)招致に尽力、遺族の寄付により岸記念運動会館建設、(現岸記念体育会館)

役員

  • 春日弘(32歳)日本陸上競技連盟設立に尽力、日本陸上競技連盟第2代会長
  • 大谷武一(30歳)高等師範学校助教授、文部省留学生、ラジオ体操考案者の一人、ソフトボール、ハンドボールを日本に紹介
  • 岡部平太(26歳)嘉納治五郎の柔道門下生、1917年よりアメリカ留学、戦後ボストンマラソン監督として田中茂樹優勝など体育、陸上、マラソン界に尽力

参考文献

  • 長谷川孝道「走れ二十五万キロ、マラソンの父金栗四三伝」復刻版
  • 熊本日日新聞社2013年
  • 山本邦夫「近代陸上競技史(上巻)」同和書院1974年
  • 有吉正博「世紀を越えて―茗溪陸上競技101年の歩みー『金栗四三』」筑波大学
  • 陸上競技部創部101年記念誌2004年