学会活動

ランニング・カフェ

第13話 細胞分裂間に早い遅いがあるのか?

山地啓司(初代ランニング学会会長)

ヒトのからだは60兆個の細胞で形成されている。一個の細胞が分裂して2個の細胞になる。分裂前からある細胞を母細胞、分裂後にできた細胞を娘細胞というが、元の母細胞はしばらくすると死滅する。新しい細胞の娘細胞は母細胞と同じ機能を有し同じ働きをするため、からだは特別変調をきたさず、からだを形成している総細胞数も変わらない。分裂してから娘細胞が誕生するまでの期間(細胞周期)の長さは細胞の種類によっても異なるが、一般に増殖中のヒトの細胞では約24時間である。(筋トレは隔日に行わなければならないという理由がここにある)。

1961年、アメリカのヘイフリックはヒトの胎児の細胞を取り出してシャーレの中で培養を続けたところ、一定の間隔を置いて分裂を繰り返すが、ある回数に達すると、もうそれ以上分裂をしなくなる。その上限の回数は約35~63回であった。続いて、大人の細胞を取出し同様にして調べたところ、14~29回しか分裂しない。すなわち、大人ではすでに成人になるまでの間に20~30回分裂を繰り返してきたために、その分、残りの分裂可能な回数が少なくなっていることを突き止めた。このように培養細胞の増殖能力には限界があることを突き止めたヘイフリックの名にちなんで、「ヘイフリック限界」と呼ばれている。

このことは何を意味するのであろうか。からだの細胞は大脳の細胞を含めて4~5年ですべてが入れ替わる。細胞が分裂して新しい細胞が誕生するためには、十分な栄養が必要である。特に、筋肉を構成する源であるたんぱく質などの栄養素が必要である。それも30分以内に摂取すると吸収率が高まるため、筋トレをしながらたんぱく質のサプリメントを取るのが一般的である。特に成長期では成長のための栄養とトレーニングの回復のための栄養も加算されるため、十分な栄養の摂取が求められる。故に、西洋では昔から、「ヒトは、食べたものなり」と言われている。親元を離れて自炊や外食をしている寮生や下宿生などは、恐らくそれまでの人生の中で最も栄養の不足した生活を送っているのではないかと思われる。仮に大学4年間いい加減な食生活をしている学生は、からだのほぼすべての細胞が入れ替わることから、入学時とは全く別人のからだになっている。ただし、新しく生まれ替わった細胞は母細胞と全く同じ情報を持った、いわゆるコピー細胞であることから、コピー人間が誕生したことになる。しかし、組織の細胞の大きさや機能的キャパシティーは大きく変わっている。例えば、やせ細った筋細胞からは大きなパワーは期待できない。入学時と同じパワーを発揮しようと試みるならば、パワーが発揮できないだけでなく無理をするとすぐ肉離れや断裂などの障害に陥ってしまう。

もし若い頃から激しいスポーツトレーニングを長期間(10~20年)実施すると、トレーニングに伴う分裂の回数が増し、その分、残された生涯の細胞分裂回数は減少し、50~60歳にもなるともう分裂可能な回数が運動していなかった者に比べると大幅に減少している(?)。勿論個人差が大きいと思われるが、理論的には十分考えられることである。

現在、日本人の寿命の長さが世界の上位を占め、わが国のマスターズ選手は世界的に素晴らしい活躍をしている。例えば、世界マスターズ陸上競技界の世界記録保持者(5歳単位で順位が付けられている)は数多く存在する。高齢者で活躍している選手、例えば60歳代、70歳代、80歳代の日本を代表する選手の多くが、約10年前から陸上競技を始めた者である。若い頃に五輪や日本選手権で活躍した名のある選手は皆無である。

かつて、マラソン銀メダリストの君原さんに聞いた話では、「50歳代の頃全国マスターズ都道府県駅伝に2~3回出場したが、1度も区間賞が取れなかった。1度目はともかく2度目は十分トレーニングしたにもかかわらず区間4位(?)だった」。そこで私が尋ねた。「もっと頑張れば区間賞取れそうですか?」と。彼は、「いや・・無理だなー」と答えた。恐らくそれは真理であろう。全国マスターズ選手権の60歳代の1,500mや5,000mでは、青春の走り方をする選手が何人もいる。驚きである。

個人の名前を挙げて恐縮であるが、体協にいた伊藤静夫氏はマスターズ選手権(800m)に出て頑張っているが、恐らく大学院を修了した後それほどトレーニングをしていなかったことが、細胞の分裂のペースを遅らせ、それが幸いしているのではないかと思う。私ごとで恐縮であるが、授業で痛めた脚のマッサージに行った時、マッサージ師は、ふくらはぎを触って開口一番、「何をしていたのですか? 筋肉が腐っている」と言った。地球5周の距離を走った身体である。弾力性はゼロに近い。指で抑えると豆腐の感触である。これでは満足に走れない。もう、細胞の分裂の回数の限界近くまで来ているのかもしれない。

教科書では1つの細胞が分裂するリズム(速さ)は遺伝子にインプットされている、とされているが、それはどうも運動しないからだを対象にした場合に言えることではないだろうか。特別運動しているヒトではそれだけ早く分裂を繰り返すように思えてならない。